2023年08月14日(月) 天気:曇のち雨
舟底の板壁
大阪平野を大きく眺めると,全体に南から北へ向かって傾斜している。川は全体として,南から北へ流れている。大阪市の南側では,東西に大和川が流れている。これはおよそ300年前の1704年に人の手によって付け替えられたもので(*1),もともとは大阪市の東側を北へ流れて行っていた。大和川が付け替えられたことで,堺市のほうから大阪市のほうへ流れる川は,分断されることになった。それでも,大阪市内を,南から北へ流れている川はいろいろと残っている。
また,大阪市内には,南北方向に伸びる上町台地がある。その両側には,少しずつ低いものになるが,同じように南北方向に伸びる丘陵地形が並んでいる。そのうちもっとも東側に位置する丘陵地形上に,「砂子」という地名の場所があった(2023年1月2日の日記を参照)。
現在,「砂子」は地名として地図に載っていない。住所表記にも使われていない。「砂子集会所」という建物の名称や,電柱の記号に「スナコ」と書いてあるところなどに,その名残が見られるくらいである。
その一角にある蔵の板壁が異質なものであるということを,昨晩,友人が教えてくれた。いま,大型で強い勢力の台風7号が,明日あたりに近畿地方を直撃しそうな状況である。雨が降りださないうちに,現地を見に行っておくことにした。
この板壁は,周辺のほかの板壁とは異質なものに見える。
このあたりでは,たとえば「中野鍼灸院」などの古い家(2023年1月2日の日記を参照)がところどころに見られる。そのような家では板壁が使われているものも多いが,その多くはきれいに整えられた板が縦に並べられたものである。
きれいに整えられた板が縦に並べられた板壁
しかしながらこの異質な板壁の材質は横に並べられており,そのうえ細かくつぎはぎされたような部分もある。まるで,廃材を流用しているかのように見えるわけである。
つぎはぎされた個所などをみると,廃材を流用しているかのように思えてしまう。
友人によると,この板壁には「舟底の板」が流用されているらしいとのことである。砂子は,西除川の流路があったと考えられている場所である。かつてそこで使われていた船だったのではないか,と考えている人があるとのことだ。この近くでは,住宅街のまんなかに唐突に公園があるが,そこはかつての流路の跡で,ずっと家が建てられずに空いていた土地だったとのことである。
なるほど,いろいろとつじつまはあうし,おもしろいお話である。ただ,上に示した大正時代に測量された地形図では,砂子を通る河川は描かれていない。とはいえ,田畑の地図記号も示されておらず,その時点では空地だったのかもしれない。ともかく,そこで使われていた船の廃材だったとしてもそれなりに古いものであり,長い間,大工さんなどによって保管されていた廃材だったのかもしれない。
この「舟底の板」が,いつの時代のどんな舟のものだったのか,この板壁に流用されたのはいつなのか,そのあたりのことは確認できていない。もしも,思いもかけずにとても古いものであれば,それが現代にまで残っていることをおもしろく思う。逆に,それほど古いものではなく,昭和の初期ごろまで実際に使われていたなどというのであれば,現在とはまったく違った風景が,歴史的に見ればつい最近までここに広がっていたということになる。それはそれで,おもしろく思うだろう。次に会うときまでに,なにかあらたな情報が入手できてはっきりしたことがわかってくるようなことを,ひそかに期待している。
*1 3.付け替え工事 (柏原市文化財課)
→http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072600094/?doc_id=3530
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