撮影日記


2023年01月02日(月) 天気:晴

痕跡の楽しみ

昨日の午後は,久しぶりにカメラ仲間の友人と会うことができた。1月1日は営業していないお店が多く,お手軽な昼食ができるのはマクドナルドくらいしかない。
 そこでの与太話では,「最近のカメラ,レンズは大きくなりすぎだ」というネタでも盛り上がる。たとえばNikon Z用の「NIKKOR Z 50mm F1.2 S」レンズは,たしかに以前のレンズにくらべれば劇的に高性能になったのだろうけど,あそこまで大きくなるのはいかがなものか。もはや,コンパクトにまとめようとする努力を怠っているのではないか,とかなんとか好き放題に語り合ったものである。

その日,わたしが用意していたカメラの1つに,Nikon FMがある。昔のように大きなカメラをたくさん持ち歩くのは楽ではなくなったので,そうだ,このくらいの大きさがちょうどよいのだというあたりは,意見が一致した。しかし,わたしの意見は,この「Nikon FMの前期モデルでなければならない」というのに対し,友人は「Nikon FM前期型は困る」という。その差は,シャッターレリーズロック機構の違いにある。わたしは「レリーズするときには,巻き上げレバーを収めて,突起のない状態でカメラを持ちたい」と考えているのに対し,友人は「巻き上げレバーをあげて,直接,ボディに指をあてたい」という。人によって,細かなところがいろいろと違ってくるものなのである。

Nikon FM前期型は,シャッターレリーズボタン周りのリングを回して,シャッターレリーズボタンのロック/解除を切り替える。また,巻き上げレバーを少し引き出すことで露出計の電源がONになり,巻き上げレバーを収めることでOFFになる。
Nikon FM後期型やNikon New FM2などは,巻き上げレバーを少し引き出すことでシャッターレリーズボタンのロックが解除され,巻き上げレバーを収めることでシャッターレリーズボタンがロックされる。露出計の電源は,シャッターレリーズボタンの半押しでONになり,一定の時間を経過するとOFFになる。

わたしはもう1つ,FUJIFILM X-T10も用意していた。
 このデジタルカメラは,コンパクトであることも大きな魅力である。このデジタルカメラはいわゆる「ミラーレスカメラ」であり,一眼レフカメラのようなファインダー用のペンタプリズムなどはない。それでいてEVF(電子ビューファインダー)のある部分が一眼レフカメラのペンタ部(ペンタプリズムがある部分)のような形になっており,そのスタイルはいかにもカメラらしいと思えるものだ。どことなくNikon FMシリーズの面影すら感じるといっても,言い過ぎではないと思う。カメラの中身は進化しても,どことなく古いカメラの痕跡のようなものが見えている,ということだろうか。

FUJIFILM X-T10は,一眼レフカメラの「ペンタ部」に相当する部分にうまくフラッシュが組み込まれていることも,スタイル上の大きな魅力である。

昨日の目的は,駒川界隈にある地形などの痕跡を案内することにあった。
 この地区で紹介するものの定番といえるのは,まず「はりみち」の道標である。

FUJIFILM X-T10, FUJINON XC 16-50mm F3.5-5.6 II

道標が指す右のほうは,「でんしゃのりば」(下のほうの「り」の下半分と「ば」は,道路の舗装のために埋もれて見えなくなっている)である。これが示す「でんしゃのりば」は,1914年に開業した南海平野線(開業当時は「阪堺電気軌道平野線」)の「中野」停留所のことである。反対に,左のほうは「はりみち」(いちばん下の「ち」は,道路の舗装のために埋もれて見えなくなっている)と書いてある。これに沿って行けば,道標がもう1つある。そして,1000年以上前の平安時代から続いていると称している「中野鍼灸院」(*1)への道を案内している。要は,この鍼灸院と電車の停留所を示す道標なのである(2010年5月26日の日記を参照)。南海平野線は,1980年に廃止されている。この道標は,かつて存在していた電車の痕跡であるともいえる。

FUJIFILM X-T10, FUJINON XC 16-50mm F3.5-5.6 II

電車の痕跡といえば,廃線跡である。南海平野線の廃線跡は,道路になっている。その道は,「阿倍野」交差点から南東へ進み,駒川付近で東へ向きを変える。この周辺は,南北方向の道と東西方向の道が多く,街を碁盤目状に近づけようとしているように見える。そのため,このように斜めに進んでカーブを描いている道は,地図上でとても目立つものになる。いかにも鉄道の痕跡である,という雰囲気が漂う道である。
 この道を阿倍野方面へたどっていくと,かつて「田辺」停留場のあったところに到達する。そこには,長く営業しているような雰囲気を漂わせている喫茶店がある。

FUJIFILM X-T10, FUJINON XC 16-50mm F3.5-5.6 II

残念ながらお正月の間は休業しているようだが,その脇に,かつての電車のりばに掲げられていた看板が置かれているのは,ぜひ見ておきたい。ちょうどここに,電車乗り場があったわけだが,この看板は「天王寺駅前 恵美須町 方面ゆき」のものなので,まさにここにあったものではない。天王寺駅前/恵美須町方面行きのりばは,この画像を撮るためにカメラを構えた位置の左手やや後ろあたりにあった。

FUJIFILM X-T10, FUJINON XC 16-50mm F3.5-5.6 II

昔の地形の痕跡は,高低差としてあらわれる。
 大阪市の地形は,中央付近に南北に延びる上町台地がある。上町台地は,更新世の数万年前くらいの時期に堆積した地層が隆起してできた地形で,中位段丘面とされている。その西側は断層などで急斜面になっており,東側は比較的なだらかな斜面になる。また,東側には我孫子台地とされる地形がある。こちらはややあたらしい時代の地層でできており,低位段丘面とされている。大阪市内には,上町台地と並行していくつかの丘陵地形が南から北へ突き出しているように見えるわけだが,そのうちもっとも東側にある地形が,今回の案内した範囲にあたる。

中田高・岡田篤正・鈴木康弘・渡辺満久・池田安隆(2008)1:25,000都市圏活断層図「大阪東南部第2版」,国土地理院

この地形より東側は,かつて河内湾あるいは河内湖とされていた範囲になる。地形図などからは読み取れないものの,実際にこの地形の東側を流れる今川に沿って歩けば,その東西で高低差のある地形が続いていることがよくわかる。案内した友人からは,「たしかに高低差がよくわかるが,これを写真で表現するのは難しそうだ」という感想をいただいた。
 なお,ここよりさらに東の,かつて海あるいは湖だった東大阪市の衣摺で,物部守屋の軍が蘇我馬子の軍に敗れたことになっている。つまり,聖徳太子の時代になれば,このあたりはすっかり陸地になっていたということになる。

大正時代はまだ平野線沿いに古くからの集落が見られる程度であるが,昭和30年代には今川より西側は市街化がすすみはじめるようになった。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。
https://ktgis.net/kjmapw/
左側の地形図は,1/25000「大阪東南部」大正10年測図,大正14年発行のもの。
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。
https://ktgis.net/kjmapw/
左側の地形図は,1/25000「大阪東南部」昭和22年三修,昭和32年資修,昭和32年発行のもの。

今川より東側の低地は,昭和40年代ころまでは田として利用されているところも多かった。そのため,今川より西側を歩くと,昭和40年代以前のものではないかと思われるような建物や,そのころから営業していたのではないかと思われるようなお店の痕跡らしいものを観察できる。建築の流行などに詳しい人とご一緒できれば,また違った楽しみ方もできるだろう。繰り返し歩き回ればあらたな気づきに出会えるかもしれないが,時間の経過とともに,痕跡も消えていくのかもしれない。

*1 058 中野のはり (東住吉区)
https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033874.html


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