撮影日記


2022年09月24日(土) 天気:晴れ

奥原写真機製作所の活動時期を絞り込む

大阪市立中央図書館で古い住宅地図と電話帳を参照した結果,「奥原写真機製作所」は1981年までに活動を終えていると考えられるようになった(2022年9月19日の日記を参照)。この時期をもう少し絞り込むために,さらに新しい時期にまで広げて,住宅地図と電話帳を参照することにした。

電話帳には,「50音順」のものと「職業別」のものがある。「50音順」電話帳にはおもに個人の住宅の電話番号,職業別電話帳には商店や工場,会社などの電話番号が掲載されている。「大阪市職業別電話番号簿」では1978(昭和53)年9月発行のものまで「奥原写真機製作所」の掲載があることが確認できたが,1979(昭和54)年11月現在(翌年3月発行)のものでは,「奥原写真機製作所」の掲載がなくなっていた。
 ところで「大阪府工場名鑑」には,「奥原写真機製作所」の代表者が「奥原定一」さんであることが掲載されている(2022年9月18日の日記を参照)。職業別電話帳から「奥原写真機製作所」の掲載がなくなったあとの時期の50音順電話帳を参照したが,「奥原定一」という個人名での掲載はなかった。1978年から1979年にかけてのころに,完全に廃業したと考えられる。
 住宅地図については,1961(昭和36)年版と1969(昭和44)年版の「大阪市全商工住宅案内図表」(住宅協会出版部)で「奥原定一」宅に隣接して「奥原写真工場」が記載されているのを確認できる(2022年9月19日の日記を参照)が,1977(昭和52)年版の「大阪市精密住宅地図」(吉田地図)では「奥原定一」宅は記載されているものの,「奥原写真工場」はなくなっている。
 以上のように,「奥原写真機製作所」は1978年ころまではなんらかの営業をしていたと思われるが,1977年までには工場がなくなって,製造は終了していたと考えられる。
 その後の年代のものでも,電話帳には「奥原写真機製作所」や「奥原定一」の掲載は確認できなかった。

住宅地図については,1988(昭和63)年版のものには「奥原定一」宅の記載があるが,1990(平成2)年版のものでは,その一帯は空き地になっていた。現在,そこには大阪市営苅田住宅1号館が建てられており,「奥原写真機製作所」があったと思われる場所には,その集会所が設けられている。現地を訪れてみたが,「奥原写真機製作所」工場の痕跡らしきものをみつけることは,できなかった。


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