撮影日記


2022年03月26(土) 天気:雨

「OKUHARA CAMERA MFG CO.,LTD. OSAKA JAPAN」
は我孫子東に存在したのか

レンズ部とフィルム部とが蛇腹で結ばれ,撮影しないときは小さくたためるようになっているタイプの大判カメラは,組立暗箱とよばれることがある。組立暗箱の多くは木製であり,大画面の撮影ができるわりには,カメラ自体がコンパクトで軽いという特徴がある。日本国内では近年まで,タチハラやナガオカなどが4×5判や8×10判のフィルムを使う組立暗箱を製造し,販売していた。組立暗箱は古い形態のカメラであり,カビネ判や八切判の乾板を使う組立暗箱が,おそらく明治時代末期ごろにはすでに流通していた。それらのなかには銘板などがなく,どこのどういうメーカーがいつごろ発売したのかがよくわからないものも少なくない。また,一般向けに雑誌等で宣伝されるような性格の製品ではないから,雑誌の記事,広告,カタログなども情報を目にする機会もごく少ない。
 そのような組立暗箱のなかに,「OKUHARA CAMERA MFG CO.,LTD. OSAKA JAPAN」という銘板がつけられたものがある。日本カメラショー「カメラ総合カタログ」や日本カメラ「カメラ年鑑」などでは,見かけない名前である。また,古い時代の「アサヒカメラ」などを参照しても(もちろんすべてをくまなく見ることはできないが),「OKUHARA」という名称の製品の広告を見かけることもなければ,販売店の中古品リストなどで名称を見かけることもない。OKUHARA CAMERAは,銘板に記載された文字から「OKUHARAという名前で」「大阪のどこかにあったらしい」ということしか,わたしは情報を入手できていなかったのである。それにもかかわらず,中古カメラ店やインターネットオークションでは,この銘板がついた製品を見かけることが決して珍しくない。むしろ,乾板時代の組立暗箱としてはとてもポピュラーなものだと思われるくらい,よく見かけるものである。

これだけの情報では,いつごろに流通した製品なのかも,見当がつかない。組立暗箱というスタイルは,写真というものが誕生してさほど時代が過ぎていないころには出現している。組立暗箱という形態は,明治時代末期にはすでにあらわれている一方で,「OKUHARA CAMERA」というプレートのついたカメラの購入時期について,「昭和30年頃に仕事をはじめてから2台目のもので,カラーに移行するころに購入した」という例を聞いている(*1)。したがって,「OKUHARA CAMERA」という製品が製造された時期を知るには,明治時代末期から昭和40年代初期にかけての範囲を調べる必要がありそうだと考えた。
 まずは,組立暗箱がもっとも流通していたのではないかと想像できる,昭和初期を中心に調べることにした。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている資料に,「大阪市工場一覧」というものがある。1925(大正13)年,1927(昭和元)年,1930(昭和5)年,1933(昭和8)年,1938(昭和13)年の版があり,該当しそうな項目を眺めてみたが,「オクハラ」という読みの名前で関係しそうな工場を見つけることはできなかった。このことからは,昭和初期には活動していなかったという可能性がある。「大阪市工場一覧」は,ある程度以上の規模の工場だけを掲載しているので,ここには載らない程度の小規模な工場だったという可能性もある。また,「大阪」といっても,「大阪市内」ではなかったという可能性もある。とりあえず,ここで行き詰った。

「井上一子美容室」をきっかけに,「ネットの電話帳 自由な電話報道サイト」というところで公開されている,古い電話帳のデータを参照していた(2022年3月20日の日記を参照)。そのとき,ふと思い立って,「オクハラ」という名前をさがしてみたところ,1955(昭和30)年4月の「大阪市人名別電話番号簿」(p.113)(*2)に,「奥原写真機製作所…67-6802 住,我孫子東5-55」という記載があるのを確認した。もしかするとこれが,「OKUHARA CAMERA」の正体ではないだろうか。なお,1954(昭和29)年の版には掲載がなく,このサイトで公開されている1967(昭和42)年の版でも掲載がある(ただし,住所の番地表記が5-40に変わっている)ことから,少なくとも昭和30年から昭和40年代にかけて,活動していたことは間違いなさそうである。乾板を使う旧式の組立暗箱の製造者としては,比較的あたらしいものの1つではないだろうか。
 大阪市内の住所表記は,全体的に昭和50年代末に整理されている。現在,住吉区我孫子東は3丁目までしかないので,ここに記載されている奥原写真機製作所の住所は,現在の住所表示とは一致しない。昭和45年に発行された「大阪市街図」(ワラヂヤ)を参照すると,奥原写真機製作所の住所に相当する場所は,我孫子東の阪和貨物線のすぐ北側あたりのようである。そこはかつて,地下鉄我孫子車庫があった場所の北側であるともいえる。現在では,市営の高層住宅なども建ち並ぶ住宅地になっている。そのあたりを今昔マップ(*3)や空中写真(*4)で確認すると,昭和20年代は該当するあたりは一面の田で,昭和30年代にはいってからようやく建物が建ち並びはじめている。それらの低層の住宅の1つが,奥原写真機製作所だったのだろう。このあたりは,1990年代にはいったころからところどころが更地になり,その後,高層住宅が建てられるなど,再開発がすすめられたようである。それまでの低層の住宅地,そして奥原写真機製作所の痕跡はもう残っていないように思えるが,現地をいずれ確認しておきたいとは思う。

なお,古い電話帳で「奥原」という名前をさがしているときに,たまたま「大阪大衆トルコ温泉」も目に入ってきたのであった(2022年3月23日の日記を参照)。

*1 オクハラ製組立暗箱 (カメラミュージアム by awane-photo.com)
https://www.awane-camera.com/1/1/okuhara_camera/index.htm

*2 昭和30年4月1日現在大阪市人名別電話番号簿 (ネットの電話帳 自由な電話報道サイト)
https://jpon.xyz/ponka/ponka.php?a=oo19550401

*3 今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト (埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室))
https://ktgis.net/kjmapw/

*4 地図・空中写真閲覧サービス (国土地理院)
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1


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